という訳で、高槻にある今城塚古墳に行ってきました。来訪日6月4日(土)
現在2年の日本史では、古墳時代辺りをやっていまして、資料集の大仙古墳や五色塚古墳の美しい姿を見て、
見に行きたいな→遠い→近くに古墳がある→見に行こう!!
と、まあこんなことを思いまして行ってきました。
まず、今城塚古墳とは wikipediaより
今城塚古墳(いましろづかこふん)は大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある6世紀前半では最大級の前方後円墳。国の史跡。
摂津北部、三島(みしま)平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。
古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』など文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。
真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定については現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。
この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それまでずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。
以下、写真。
歴史館にあった五色塚古墳の模型
こんな風に作られました
高槻の施設。
地震の地滑りで崩落が起きたらしい。
ちなみにその地震とは、慶長伏見地震のことで、動いた断層は、有馬・高槻構造線らしい。
以下、古墳公園の外観。
普通に山でした。
以上、ヌンググンでした。