私は今まで、勉学に関する何かしらの試験で、不合格になったことがありません。
それは相応の実力があったわけではなく、自分の運がとても良かったからだ、とずっと思ってきました。
常日頃から運が良いのではなく、勉学に関すること、その中でも試験など大切な事柄でのみ、その運は発揮されます。
どんなに賢くとも、どんなに勉強をしても、試験に落ちてしまう人は当然います。
そんな人を前にしたとき、「運が悪かった」以外に何が言えるでしょうか?
そう考えたとき、私は非常に「運が良かった」のです。
例えとして、高校入試を出します。
私が高校受験で受かったのは、運が良かったから以外の何ものでもありません。
千里高校の入試は国語、数学、英語の三教科ですが、当日の試験問題は、どれもが自分にとって解きやすい内容でした。
塾、あるいは自宅で解いた過去の入試問題の中で、学んだことのある、もしくは似通った問題が多かったのです。
内申点に関しては可もなく不可もなくでしたが、千里高校を受験するには少し足りないくらいだったかもしれません。
これらの事から、いかに私が運が良かったのかを記述していきたいと思います。
まず、内申点。
もし中学時代の先生方が、その時点での私に相応の評価を与えていたら、きっともっと内申点は低かったでしょう。
「見込み点」として少しばかり上乗せした評価を与えてくれた先生方と出会えた、運。
また私が通っていた中学では、そこまで上を目指す人が多くはなかったため、競争率は高くありませんでした。
もし近隣の、「頭が良い」とよく聞く中学校に入っていれば、きっと私は埋没して高い評価は得られなかったでしょう。
当時の中学校へ在学していた、運。
次に入試問題に関して。
前述した通り、当日の入試が自分にとって解きやすい問題であった、運。これに尽きます。
自分にとって解きやすかったのであれば、他の人にとっても同様に解きやすかったのかもしれません。
しかし例えそうだとしても、その中で順位がはっきり出てしまっています。
私が、合格ラインを超えられるくらいまで回答できたのは、それまでに解いた問題のお陰なのです。
公立高校前期入試の過去問集は全員がやりこんだでしょうから外すとして、それ以外の受験勉強。
受験直前の追い込み期、私は個別指導の塾に通っていました。
数ある問題集の中から適切なものを選び、指導してくれた講師の方々と出会えた、運。
またその塾に行く前には別の塾にも通っていたことがあり、そこで学習した内容も非常に役立ちました。
そういった諸々の運が重なって、受験戦争を突破することができたのです。
さて、これが今まで私が考えていた、「合格するまでに至った理由」です。
私は運が良かった。そう結論付けていましたが、そこでとどまらずに更に掘り進めてみました。
これまで私が「運」としていた合格に至るまでのいくつかの事項、例えば中学校生活や塾での勉強は、もちろん、私だけではなく他の受験生も選択し、受けてきたはずです。
そうなると、私の持論でいけば自分だけではなく、他の合格者も「運が良かったから」受かったということになります。
本人が持つ実力は度外視していますが、どれだけ自力があっても運が悪ければ落ちる可能性は十分にあるためです。
つまり受験とは、運の良し悪しだけの競争となります。
合格者は運が良かった。不合格者は運が悪かった。
運だけの世界でも優劣はつきます。
では、運が良いということ、それはもう実力になってしまうのでは?
運以外に判断基準がない場合、その運を実力と言わず、何と言えば良いのでしょう。
受験を成功させることができたのは実力があったからに他ならず、自分の能力を信じず弱気になったりする必要はありません。
もちろん、過剰な自信を持つべきではないですが、必要以上に謙虚にならずとも良いのです。
こう考えるようになり、私は凄く心が軽くなった。ような気がします。
これは全て一人で自問自答して考えていたわけではなく、ここまで書いたことは知人と話していたことをまとめただけです。
私自身、聞いていて腑に落ちない部分もありました。
しかし、自分一人だけの意見で完結させていれば、思いもしなかったような考えを知ることができ、視野を広げることができました。
「運も実力のうち」
これに納得する人も、疑問を持つ人もいるでしょう。
疑問を持った人はどこに、何故疑問を持つのか、納得した人もそこで思考を停止させず、何故受け入れることができたのか。
このテーマに限らず、そうやって考え、また他の人の意見を聞くことは、精神面での成長でとても大切なことです。
知人との会話でそのことを実感したので、皆さんにも、考えるきっかけになればと思い、今回掲載させていただきました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ともぞーでした。