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「竜とそばかすの姫」は理想の細田守まであと1センチ、彼の信じる醜さと美しさ、そして独特の価値観の物語とは?

これまで細田守監督作品は全部見ているが、正直、「サマーウォーズ」よりあとの、細田守監督自身が脚本をメインで書くようになってからは「うーん?」という感じになり、特に「未来のミライ」にいたっては「めちゃくちゃだぜ!」とまで感じるようになっていたし、なんなら気持ち悪かった。ただ、この気持ち悪さが一体何なのか?というのがわからなかった。生理的嫌悪感ではなく、もっと根本的な異物感があったのだ。それが細田守監督の作家性なのだというのはわかるのだが、その作家性とは一体何なのかと問われると「わからない」となっていた。

しかし今回の「竜とそばかすの姫」は全く違った。誤解を恐れずに言うなら、矢継ぎ早に公開されるYouTube公式チャンネルの予告編やメイキングを見た時点では「もうだめだろう」と思っていた。細田守監督の終わりを見届けるつもりで、死を看取るつもりで見に行った。何も期待していないと言えば嘘になる。でも、「もうだめなんじゃないか」とは思っていた。しかし違ったのだ。それは完全復活でもなければ、帰還でもない、言うならば「覚醒」だった。これまで細田守監督作品を見て一度も涙することなど無かったこのオレが、泣きそうになった。しかも3回ぐらい。それも「悲しい」とか「最愛の者の死」とか、そういうありきたりなものではなく、「こんな……こんなことを……マジでか?マジでこんなのを描いて良いのか?細田くん?ほ、ほそだくぅうううううん!!!(涙)」という感じだ。すべて理解した。なぜ今まで理解できなかったのかも理解した。強い言葉であえて言わせてもらう。細田守監督の描きたかったものがようやく形を成したのだな、でも完成まであと一歩、いや、あとわずか1センチなのだな、というのもわかった。

まず最初に描かれる主人公の女子高生が「ベル」になるまでの部分。クライマックスで描かれる「竜」に信じてもらうために「ベル」は自分なのだというのを公衆の面前で本当の自分の姿を晒して歌うことで証を立てるシーン。そして最後に描かれる主人公が「竜」を助けに行くエンディング。この3点はすべて実は同じものを描いている。そしてそれはこれまでも実は細田守監督が描こうとしてきたものと同じだ。箇条書きにすると、以下の3つに集約される。

1:細田守監督は「家族のつながり」とか「血のつながり」を信じていない。そんなつながりで大事に思うのは当たり前だから、肉親を助けるとか、大事な人を助けるなんてことには「価値がない」と思っている。なぜなら、最初からちゃんとした確固たるつながりがあるから。

2:血縁関係ではない「恋人のつながり」とか「親友のつながり」も信じていない。血のつながりほど濃くはないが、でも大事なんだから助けるんでしょ?大事だから助けるのは当たり前すぎて、それに何の価値があるの?と細田守監督は思っている。

3:では細田守監督は何に価値を見いだし、尊さ、美しさ、気高さを見いだしているのか?それは「何の関係もなく、何のつながりもない、なのに自分の大事なモノを捨ててまで助ける」こと。つまり「無私」だ。ここに「善意」と「悪意」がある。この善意と悪意が等しく50%と50%であること、それこそが理想世界だと信じている。そしてそのような「奇跡」を描こうとしている。

どれもこれも「なんだそれは?」となるので、今回の「竜とそばかすの姫」で見ていくことにする。

まず序盤のシーン、主人公の母親が、見も知らぬ子どもが川の中州に取り残されているのを見て、助けに行く。幼い主人公は「行かないで!」と言って止める。ここで露骨に主人公は、見知らぬ誰かを危険を冒してまで助けるのはおかしいとはっきり母親に伝える。しかし母親は主人公を諭し、見知らぬ子どもを助け、死ぬ。

結果、主人公と残された父親はギクシャクし、主人公はひとりぼっちになり、寂しくなる。このシーンは一見すると、「主人公がひとりぼっちになった経緯」を描いているように見えるが、そうではない。このシーンこそがすべてであり、このシーンの意味することこそが、これまでの細田守監督自身で脚本を描くようになってから繰り返し繰り返し描かれることになっていたものなのだ。

今作において、「ベル」としてネット世界「U」で有名になった主人公は、途中から一体どこの誰だかもわからない「竜」を助けようとする。ここに非常に違和感を覚えたのではないだろうか。オレもそう最初は思ったし、「この竜は一体誰なのかな?幼なじみの少年か?それとも父親か?あるいは死んだ母親の残した人工知能?はたまた母親が助けたあの子どもが成長した姿か?」などなど、いろいろと考えていた。劇中でも、明らかなミスリードがいくつもあり、あからさまに「ほ~ら、竜の正体は誰かな~?全然わからないね~?」という露悪的なことを行っていた。そう、実際には竜は本当に主人公とは何のつながりもなく、主人公の過去で実は知り合いだったとか、どこかですれ違ったとか、そういうものが一切無いのだ。マジでなーんにもつながりがない。血のつながった家族でも親戚でもなく、はたまた恋人や友人でもない。つまり、主人公が「竜」を助ける理由などない。ましてや、主人公がついに得た「BELLE」という仮想世界「U」における歌姫の姿を捨ててまで助ける関係などないのだ。

しかし、細田守監督の価値観は違う。「助ける理由など何もないのに助けることにこそ価値があり、尊さがあり、美しさがあるのだ」と考えているのがありありとわかる。そのため、「竜」を助けるため、信じてもらうため、主人公が「BELLE」を捨てることを決心する一瞬、かつての母親がなぜ見知らぬ子どもを命を賭けて助けたのかというシーンが一瞬だけ挿入される。あのときの母親の決断が幼い時にはわからなかったが、今ならわかる、今、ここで、あの「竜」を助けられるのは自分しかおらず、彼を助けるにはすべて捨てなければならないとしても、助けるとはそういうことなのだ、というのがあの一瞬にすべて凝縮されている。が、この考えは一見すると「なるほど」と思えるが、ここには言いようのない気持ち悪さもあるはずだ。なぜか?なぜなら、普通の人間の価値観として、命を賭けて助けるには、大事なものを捨ててまで助けるには、「理由」が必要だからだ。親が自分の子どもを助けるのは血がつながった大事な我が子だから、恋人を助けるのは愛していてかけがえのないたった一人の相手だから、というような感じで。でも、細田守監督はその関係を信じていない。疑っている。「そうだね、そういうつながりは大事だし、大切だよね。でも、そうじゃない、何のつながりも理由もないのに、すべてを捨てて助けるってことが一番すごいことなんじゃないのか?血のつながりとか何かの理由があるから助けるなんてのは実は当然であり普通のことで、だからこそ何の関係もなく理由すら曖昧なのに、それでもなお助けるというところにこそ真の価値があるんじゃないのか?」と言っているわけです。

この部分は個人的に、猛烈に胸に迫るものがあった。予告編第1弾で公開されている51秒からの以下のシーンがこのおっそろしいシーンだ。予告編ではなんだか良いシーンみたいに描かれているが、全然違うぞ。まさか、よもや、あんなシーンだとは思わなかった。URLのうしろに「t=51s」を付け、大問題シーンから再生できるようにしておいた。

『竜とそばかすの姫』予告【2021年7月公開】 – YouTube

これ、要するに「U」における「死」=「身バレ」なわけで。現実世界での死と同じものが「U」では何なのか、かつて母親がしたことと同じことを主人公がする。背筋が寒くなるを通り越して、凍り付いた。えげつない。ここに細田守監督のいわゆる「気持ち悪さ」が凝縮されている。この気持ち悪さは普通の人生ではなかなか体験し得ないものがベースにあるからだ。それこそがこのシーン、何十億という見知らぬ人たちの前で自分だけは本当の自分を晒すという怖さ、これはまさに細田守監督自身だよね……罵倒もされるし、賞賛もされるけど、でもこの主人公である「そばかすの姫」も「竜」も、どちらの闇も光も、ここにはあるんだよね、きっと。だから一番重要なタイトルが出るシーンのバックで、象徴的にこのシーンが使われている。このシーンの重要さはそこにある。

この価値観が表れているのは「BELLE」になっていく一連の過程でも表現されている。見知っている者たちの前では、主人公は自分自身を表現することができない。歌いたいのに歌えない。吐いてしまう。でも、何の「つながり」もない、完全に無関係であるネット世界の仮想ワールド「U」では本当の自分自身をさらけ出すことができた。本当の自分の能力を全力全開で出すことができたのは、何の「つながり」もなかったからだ。そして何のつながりもない、見知らぬ完全な他人だからこそ、「つまらない」「面白くない」という悪意もぶつけられるが、「すごい」「感動した!」「いい歌だ!」という賛同あふれる善意も得ることができた。絶望も救いも両方ともそこにはあった。現実世界ではどちらも得られなかったものだ。このことは露骨に主人公の台詞として「でも半分が私をけなしてる、どうしよう」みたいな台詞で表現されており、それに対して主人公をプロデュースした友人が「違うでしょ!半分もあんたをほめてるんだよ!」というようなことを言っている。

どう見てもこれは、細田守監督の過去作に対する世間一般の評価そのものを浴びまくった監督自身の理想とする世界を描いているように思えてならない。確かに究極の理想は「みんなが大絶賛、100%の人がほめてくれる」なのだが、そうではない。きっと監督の中においてそうやってみんながほめてくれるというのは身内びいきであるとか、忖度であるとか、お世辞であるとか、そういうものなのだ。駄サイクルと同じで、そういう100%のほめほめ大絶賛は嘘くさいと思っている。逆に、まさに直近の「100ワニ」のように、もはや作品自体の価値ではなく、「これはみんなのおもちゃとして叩いて良いサンドバッグ認定」されているから100%ネタにして叩きまくるという悪意100%も理想ではない。公平公正仮説のように匿名の悪意も善意も「50:50(フィフティ・フィフティ)」というのが、何のつながりもしがらみもないからこそ実現されるものではないのか、そう示し、表現しているのだ。確か無印良品の製品デザインのいくつかは、実は超有名デザイナーが担当しているが、なぜ名前を出さないのかというと、「本当に自分の実力で評価されているのかどうかを知りたい」みたいなケースがあると何かの番組かインタビューで言っていた記憶がある。それと同じで、「何のつながりもない」からこそ、そこに真実が宿る、本当の価値が現れる、本当であるからこそ悪意も善意も等しくそこにはあるはず、願わくばその比率が半分ずつであれば良いのに、そういうことなのだろう。もしかすると、ニコニコ動画あたりに細田守監督が匿名で何か作品を投稿しているのかもしれない、そしてそこでは正当な評価を得ているのかもしれない。それは悪意まみれであれば絶望だが、でも確実に希望でもある。

ここからは完全に邪推になるが、細田守監督の過去のドキュメンタリー作品を見る限り、細田守監督は「家族の価値」というものを信じていないように見える。いや、かつては信じていた、あるいは信じようとしたように見える。「みんなが家族は良いよ、恋人は良いよ、結婚は良いよ、子どもは良いよ、っていうからやってみたけど……本当に?」という感じだ。このことが極端に示されているのが、細田守監督が超おじいさんから渡された手紙のエピソードに凝縮されている。超おじいさんこと、宮崎駿監督のところで仕事をしたかったので応募したのに断られてしまったが、宮崎駿監督からの手紙の中で「求めているのは歯車だが、君は違う」というようなことが書いてあった、というアレだ。採用されず落とされたので若かりし細田守くんはその手紙を一度は破るのだが、逆に言えば宮崎駿監督がこの時点で既に細田守のことをひとりの作家として認めている、とも捉えることができる。そのことに気づいた細田守は破いた手紙を拾って修復し、額に入れて飾り、自分の心の支えとした。当時の宮崎駿監督から見れば、細田守はなにものでもない他人であり、何のつながりもない。しがらみもない。忖度することなどあり得ない。細田守から見れば当時の宮崎駿監督は偉大な人だが、やはり他人だ。この他人同士の何のつながりもない中で、「採用されず捨てられた」という絶望、同時に「でもあの宮崎駿監督が自分を歯車ではない、ひとりの作家として認めてくれた」という希望、この2つが同時に存在しているとも受け取れる。このことが若かりし細田守を支えたのではないだろうか。そして、「ハウル」で結局、監督として作品を完成させられずに降板させられ、宮崎駿監督が代わりに完成させたことで、「もうアニメ業界に自分の居場所はない」と絶望したものの、「時をかける少女」で細田守監督を救ったのは、作品を見た名も知らぬ他人の集合体である観客たちであり、そして「サマーウォーズ」でファンが細田守監督自身を押し上げてくれたのも、その他人たちの評価だ。いずれも「血のつながり」でもなければ「仲間としてのつながり」ですらない。悪意も善意もそこには在るが、結局のところ、名も無き匿名の第3者たちが、かつて絶望の淵に沈んだ細田守監督を救ったのだ。この原体験に支えられているからこそ、だからこそ細田守監督は、結局のところ、究極のとどのつまり、誰かが誰かを救うというのは血のつながりでもなく愛のつながりでもなく、まったく何のつながりもないところにこそあるのだ、その奇跡こそが尊いものだ、と信じているのではないだろうか。

特に今作において「竜」は最後、「助ける助けると言うけど、口先だけでなく、本当に助けてみろよ!」というようなことを絶叫する。かつて主人公の母親は「誰か助けて怖いよ」と泣き叫ぶ見知らぬ子どもを、命を賭けて救った。そして死んだ。あのときは理解できなかったが、今なら主人公にもわかる、だから「U」でやり直して手に入れたすべてを捨てる=死を選んで助ける、そこに理由など、ない。誰かが誰かを助けるのに理由など本当はなくても良いのだ……これが今作の最重要ポイントであるというのはもはや自明の理であろう。だから「50億人がすれ違うこの世界で」、すれ違ったというただそれだけの理由で助けることが、尊く、美しく、価値がある。

実際、「U」での評判=他者からの評価が究極まで悪化した「竜」の城は文字通り大炎上している。

この「U」では誰も彼もが「竜」を助けない。自業自得だと思っている。でも主人公だけが違う。だから助ける。本人にたとえ拒否されても、だ。

この視点というか、細田守監督の価値観が特異かつ重要である理由は、実は細田守監督自身が脚本を全部担当した過去3作においても同様の構造が実は出現しているからだ。「おおかみこどもの雨と雪」で、描こうとしたのは母親の愛情ではない。予告編でも台詞で明示されているが、「狼ってどうしていつも悪者なの」「みんなが狼を嫌っても、お母さんだけは狼の味方だから」と悲しむ子どもに母親が言う場面、これは明らかに今作の「U」のみんなに嫌われて悪者になった「竜」の味方を「そばかすの姫」がしているのと実質的に同じだ。

おおかみこどもの雨と雪 予告篇 – YouTube

母親は人間だが、雨と雪は人間ではない。親子であり、血のつながりがあるかもしれないが、決定的につながってなどいないのだ。だから血のつながりで救うことはできなかった。でも、別のつながりが救ってくれた。それは母親も同様で、何の手助けも得られない田舎に引っ越すというのは、逆に言うならば「何のつながりもない他人だからこそ本当の本当に助けて欲しい時に救ってもらえるのではないのか」という細田守監督の価値観が出てしまっているからだ。しかし、そもそも論として普通の一般人的感覚から言って、このことは理解しづらいはずだ。確かに見知らぬ人が見知らぬ誰かを助ける美談は存在する。でも、それは滅多に起きないからこそ美談であり、ニュースになるのだ。一般的な大多数の感覚とは相反する。だから「おおかみこどもの雨と雪」は「気持ち悪い」のだ。しかし改めて思い起こしてみて欲しい。「おおかみこどもの雨と雪」では徹底的につながりが遮断されている。もし父親の狼男が生きていれば、そちらの生き方にならうのは当然のことになってしまう。なぜなら、人間として生きることができるのは純度100%、純血の人間だけだからだ。ちょっとでも人間以外の血が入っている以上、雨も雪も母親という人間の側に立つことなど絶対にあり得ない。父親が生きていれば、そちらによりなびきやすくなってしまう。でも、それは「異物としてのつながり」があるからだ。細田守監督的にそれはおかしい。だから、父親はゴミのように捨てられ、雨と雪とのつながりは断たれたのだ。親子でありながら、血縁関係でつながっていながら、本質的には「異種」であり、つながりなどないというところにこそ、真のつながりが宿るのではないか、細田守監督はそう考え、そのことを表現したのだろう。でもそれは一般人ウケする事実ではない。極めて特殊で、極めてわかりにくく、極めて共感が得られにくい。

実際、今作のメイキングのインタビューの最後、細田守監督は「人間」と言ってから「人物」とわざわざ言い直している。248秒のところだ。「人間」ではなく、「人物」=「【人】の形をした【物】」にきちんと演じさせることにこそ重要な点があるのだろう。明らかにこの言い直しにはこだわりを感じる。

10【Making of 竜とそばかすの姫】細田守✖『竜とそばかすの姫』 – YouTube

で、「おおかみこどもの雨と雪」の次の「バケモノの子」は比較すればもっとわかりやすくなっている。今度は完全につながりがない。家族と離れてつながりがなくなり、家族以外の存在とのつながりが育まれる。しかしここで細田守監督はひとつの矛盾に立ち向かうことになる。すなわち、「血のつながりで救うのは当然、完全につながりがないところで救うから価値がある、では救ってから後の関係はやはり血のつながりのような関係、つまり救うのが当然という関係に堕してしまうのではないか」というものだ。だからこそ「バケモノの子」で主人公は途中から突然ぽっと出の女子高生との新しい関係=つながりを作ることになる。

バケモノの子 予告篇 – YouTube

何の理由もなく出会って、自分自身の運命が変わっていく、そういうのもまたつながりがなかったからこそであり、むしろこれまでのつながりを捨てたからこそ、そこに新しく生まれるつながりがある。そういうことなのだろう。また、こういう価値観をベースにしていると考えれば、なぜ細田守監督作品には執拗に人間ではない「獣」が出てくるのかがわかる。細田守監督はケモナーではない。人間を信じていないだけだ。厳密には、人間が頼りにするところの当たり前の価値観、血のつながりを信じていない。そんなごくごく当たり前のものではない、あり得ないものだからこそそこに尊さ、美しさがあり、細田守監督自身が救われた経験、そして傷つけられた経験、自分自身を今の地位まで押し上げ、そしてさらしめたもの、そのすべてのつながりを描こうとしたのだ。しかし、細田守監督の価値観は特殊だ。理解しづらい。もしかすると、細田守監督は「とてもわかりやすく描いた」のかもしれない。でも、根本的な価値観と視点が、細田守監督は一般の大多数とは違いすぎる。あまりに異質、あまりに希。細田守監督も馬鹿ではない。そのことは重々承知しているからこそ、サービスしている。わかりやすくしている。それに、一般人が家族とか恋人とかそういうつながりを重視しているのもわかる。でも、それでもなお、細田守監督は言いたい、言わずにはおれない、「いや、もっと尊いものがある、もっと美しい、本当の本当に価値のあるものがあるんじゃないのか、見てくれ」と。

この想いが結実したのが大問題作「未来のミライ」だ。過去2作、「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」で細田守監督は大きく傷付いた。なぜだ、なぜこうまで通じないのだ?なぜわかってくれないのだ?そんなにか、そんなに難しいことなのか?おかしい……。もちろん細田守監督も無策で挑むはずがない。過去2作の問題点は何か?それは最初から「血のつながりに価値なんてないよ」という前提に立っているからだ。これが「気持ち悪い」「つまらない」の原因だ。細田守監督は考えたに違いない。ならば、今度はそのお前たちが信じるところの価値観が本当にそうなのかどうか見せてやろうじゃないか、と。「未来のミライ」で主人公の「くんちゃん」は母親と父親の愛情をたっぷり得ていた。でも妹が生まれた。親子のつながりがあるからこそ得られていたはずの愛情が、妹の突然の出現によって得られなくなってしまった。ほら見ろ、血のつながりがあるがゆえに、得られなくなってしまうものがあるではないか。この「嫉妬」を認識させてくれたのは親ではない。人間ですらない飼い犬がくんちゃんにそのことを示してくれる。この飼い犬自身も、くんちゃんが生まれるまでは両親の愛情を受けていたわけだから。そしてこの嫉妬感情を振り切るため、くんちゃんはアナルプラグを挿入して人間ではないものになってつながりを断ち切ることで一時的に克服する。もうめちゃくちゃである。しかしそこに未来から妹が現れ、行き遅れになる原因はあのひな祭りのおひな様にあるとか意味不明なことを言い始める。ホラ見ろ、血のつながりはこういうわけのわからないトラブルばかり運んで来るではないか。やはりめちゃくちゃである。さらに母親という実の血の直近のつながりを見るため過去に戻ると、とんでもないことになっていた。血のつながりがどこから来ているのか、なにゆえくんちゃんはこんな性格になっているのか、血のつながりを許容するということはこういうことなのだぞ?それでもお前は良いのか?ここもめちゃくちゃである。逆に血のつながりが薄い曾祖父はこんな感じだ、どうだ、つながりが薄い方が実は理想的じゃないか?ん?どうだ?というわけだ。

未来のミライ 予告2 – YouTube

この露悪的な、というか細田守監督自身の「お前たち血のつながりとか愛情つながりとかそういうつながり至上主義者に見せてやる、そんなにそのつながりに価値があるのかどうかをな!」という挑戦でもあったのだろう。ここまでたっぷりと絶望を見せた上で、細田守監督は究極の救いを見せる。それがあの不思議な電車に乗って、巨大な東京駅らしきところへ行き、迷子になり、親の名も答えられないぐらいに何のつながりもなくし、自分自身を失う=これまでのすべてのつながりを捨て、恐ろしい新幹線に吸い込まれそうになるというアレだ。「お前たち血のつながり至上主義者から見ると、どうやらこういう何のつながりもしがらみもないからこそ得られる価値というのは、こういう風に見えるんだろう?怖いし、気持ち悪いんだろう?つながりが消える気分って絶望なんだろう?どう?合ってる?」という感じだ。めちゃくちゃでしっちゃかめっちゃかだ。あのシーンは一見すると、親の名前も答えられず、つながりが消えていくことの恐怖を描いている。しかしそれは細田守監督にとっては希望の裏返しであり、それは確かに一般人にとっては怖いことなのかもしれないね、という監督なりの譲歩だったのだ。細田守監督の価値観から言うと、別に怖いことではないのだが、過去2作の一般人の反応をネットで検索しまくったのかエゴサしまくったのか、学んだのだろう。どうやらこんな表現では伝わらないみたいだぞ、と。それで露悪的に過ぎるが、ならば今度は一般人の感覚の方を基準にして合わせてみよう、として完成したのが「未来のミライ」だ。結果は見ての通りで、余計に意味不明で奇怪極まるグロテスクなものが爆誕してしまった。違う方向でやりすぎだ。いくらなんでもひねりすぎだ。理解されなかったからといってそれは悪手だ。でも、細田守監督の立場になって考えてみればわかることもある。細田守監督を救ったのは結局、見知っている誰かではない。細田守監督がどこの誰かもわからない他人が、細田守監督の作品を見てくれたからこそ、細田守監督は今もここに居続けられるのだ。でも、だからといって、細田守監督をこんなにボコボコにするのはいかがなものか。ネットの感想は細田守監督に希望を与えて押し上げもしてくれたが、同時に絶望を与えて評価を晒しめた。でも、それが正当な評価であれば、せめて「賛否両論」であれば細田守監督も救われるのだろう。今作のインターネット「U」はドストレートにそこを描いている。

こういう視点で見て思い起こしていくと、細田守監督のこれまでの経験、表現したいと漠として感じていたもの、そのすべてが今作「竜とそばかすの姫」ではほぼ完璧に表現されている、実現できているのではないだろうか。「おおかみこどもの雨と雪」での「気持ち悪さ」、「バケモノの子」の後半で唐突に登場する女子高生の「つまらなさ」、「未来のミライ」における大破綻、それらすべてを学びと力に変え、今、細田守監督は「竜とそばかすの姫」で、あと一歩のところまで来た。一歩ではない、あと1cmだ。オレが思うところの理想の細田守監督まであと1センチメートルだ。後方彼氏面したいぞ。ワシが育てた。なんとかしてくれ。

あと1センチメートルという理由はここからあと、最後の最後。

いや、わかるよ、現実世界でも救わないと!というところは。でもここはそれこそ、「U」と完全連動させても良かったのではないか。最後の最後の最後で、主人公がその持てるすべてを「U」で賭けたのだから、もう一切の手加減なしで、最後の最後の最後の最後まで「現実」を描いても良かったのではないだろうか。具体的にはここ。

本当に「竜」が現実のつながりのすべてを捨てるか、現実そのものを破壊しても良かった気がする。だって、どちらに転んでも通常の感覚では理解されないのだから、そうであればむしろ「いやいや!」という方向まで振り切ることで、「何も考えずにこんな展開にするわけがない」というところまでさらけ出した方が、パンツを脱いだ方がいい気はする。

この点で行くと、「サマーウォーズ」は「もう1つの世界」と「現実」との接着が非常に上手かった。何より、よくよく考えると主人公は他人の大家族の中に異物として入り込む訳なので、実はこの時点から既に「つながり」の意味を問うこと自体はやっているし、ネット世界の描かれ方もそういう視点だと共通している。それまで見知らぬ他人だったどこかの大家族が応援してくれた。だから信じられたし、助けられたし、救うこともできた。よくよく考えると、サマーウォーズの頃から何も変わっていない。表現方法が変わっただけだ。

サマーウォーズ 予告篇 – YouTube

今作はこのネットでの表現部分、特に序盤での「BELLEになるまで」はめちゃくちゃ表現力があったし、最後の「BELLEを捨てて自分自身をさらけ出して歌う」ところでも同様にCGが機能していた。これをあとわずか1センチメートルだけ、今作ではもっともっと接着させて欲しかった。サマーウォーズと同じぐらいに、世界の命運を同じちっぽけな天秤にのせても良かった。

センチメートルと言えば、「秒速5センチメートル」の新海誠監督がさっそうと細田守監督を後ろから追い抜かしていったイメージがあるだろう。しかし待って欲しい。あの新海誠監督は「星を追う子ども」で自分の作りたいモノを作った果てにとんでもないずっこけ方をしてしまい、リハビリのための「言の葉の庭」で再び自分らしさを取り戻し、そして「君の名は」で爆発して大ヒットした。でも大ヒットの理由が新海誠監督本人にもよくわからなかった。だから「天気の子」の脚本執筆時、新海誠監督は「君の名は」の脚本を並べて参考にしながら書くことで大ヒットした流れを「天気の子」にもコピーしたほどだ。新海誠監督は「自分が作りたいもの」を全面的に出すと失敗したからこそ、みんなが求める「気持ち悪さ」を表現することで大ヒットへとつなげた。これでいくと細田守監督は少し違う。おそらく、細田守監督の「自分が作りたいもの」と「自分が作るべきもの」とが、もうすぐくっついて重なるのではないだろうか。スタードライバーの有名な台詞「やるべきこととやりたいことが一致する時、世界の声が聞こえる」というのがあるが、今作「竜とそばかすの姫」は「やるべきこととやりたいこと」が、ついに一致してきた、そんな感じがする。新海誠監督で言うところの「言の葉の庭」の位置に来るのがこの「竜とそばかすの姫」なのではないだろうか。つまり、細田守監督の次回作こそは大ヒットするに違いない。今作で見受けられた様々な「?」となる欠点、「惜しい」と感じる点、なぜだか荒削りの点、そういうものが次回作ではついに克服される予感がする。正直、今作はもっとひどいものができあがり、それこそ万人に叩かれるのではないかとオレはかなり恐れていた。しかし、さにあらず、オレは不覚にも泣きそうになった。それはつまり、ついに細田守監督が表現したいものを表現して伝えることに成功し始めたからなのではないか。もしかするとオレのような変人にしか伝わっていないのかもしれない。中2病的発想だ。しかしオレは声を大にして言いたい。今作は過去3作とは全く違う、むしろ過去3作で積み上げてきたものが爆発するその前兆なのだ、と。亀の甲より年の功とはよくぞ言ったもので、これまでの細田守監督の経験や知識は無駄になどなっていなかった。1作重ねるごとにどんどん悪化しているように見えていたし、もう救いようがないように見えていたが違った。見えていないのはオレの方だった。すまない、監督。今作ぐらい丁寧にわかりやすくはっきり示されて初めてギリギリのところで理解した、本当に申し訳なかった。今まで過去3作で監督に悪意を向けていたが、今作では善意を向けることができそうだ。むしろ過去3作が実は駄作ではないのではないかという可能性すら見えた。過去最高傑作は「サマーウォーズ」だと思っていたが、違うのかもしれない。是非とも細田守監督にはこのまま全力で昇華していって欲しい。監督のやりたいこととやるべきことが一致し、世界の声が聞こえる時を見せて欲しい。こう考えると、インターネットの匿名性というのと、細田守監督の表現し続けてきたものとの相性というのは、本質的に合っているのだなというのがよーくわかる。むしろ時代の方が追いついてきたからこそ、わかるようになってきたのかもしれない。なんだろう、感じる、風。

「いやいや、それはお前の考えすぎだ、いくらなんでも妄想激しすぎ。脚本を書いた細田守監督、そこまで考えてないと思うよ(冷笑&暗黒微笑)」と思うのであれば、最後の最後にとっておきを示そう。

今作の最初と最後、この世の知性を司る5人の賢者VOICESによって創造された究極の仮想世界、アカウント数50億を突破してなお拡大を続けるインターネット空間「U」のキャッチフレーズが出てくる。これまでとは何のつながりもないところにこそ本当の価値があるのではないか、という価値観と思想を端的に示している。

「さぁ、もうひとりのあなたを生きよう。」
「さぁ、新しい人生を始めよう。」
「さぁ、世界を変えよう。」

https://www.bilibili.com/video/BV1zU4y137Lv

特に冒頭シーンではこの直後に最初の歌が流れる。監督が歌詞を書いたわけではないが、最終的に挿入歌としてゴーサインを出すのは監督なので、この歌詞に何か感じるところがあったのは間違いない。ここまでの価値観を前提として聴けば、ある意味どの作品よりもマクロスしていて、まさにヤックデカルチャー。

millennium parade – U – YouTube

この曲自体の依頼も宣伝ありきのお仕着せではなく、細田守監督からの要望で決まったということがメインテーマのメイキングでもはっきりと示されている。大体からして過去作のメイキングのドキュメンタリーとかNHKのプロフェッショナルでも示されていたが、絵コンテ段階であそこまで徹底的に線にこだわるような細田守監督が、細部に至るまでこだわらないと考える方がおかしい。こだわりすぎるぐらいこだわってわけがわからなくなるほどなのだ。

9【Making of 竜とそばかすの姫】メインテーマが出来るまで – YouTube

そして、これがただのキャッチフレーズではないからこそ、最初と最後にはっきりと示されているのではないだろうか。

是非とも「U」=「YOU」=「あなた」の世界の感想をネットに残して欲しい。それはきっと細田守監督に届くだろう。何のつながりもない匿名=もうひとりのあなたの感想はやり方次第で「次=新しい人生」につながるはずだ。そうやってこの世界は変わるのだろう。

「さぁ、もうひとりのあなたを生きよう。」
「さぁ、新しい人生を始めよう。」
「さぁ、世界を変えよう。」

作成者: そうすい

ins-magazine.netとins-magazine.orgの管理人。やることいっぱいでいつも大忙し。