5月15日(日)のエキスポIMAX、最後の回で「シン・ウルトラマン」を鑑賞。不満点は2つだけ、それ以外はパーフェクトだったので、個人的には100点満点中、200点満点という奇怪な満足度であった。意味不明だと思われるかもしれないが、これはかつて持っていたウルトラマンとか怪獣のソフビで遊んで、空想の戦いを繰り広げたかどうかというのがひとつの境界線になっている。

まず最初の作品としての「ウルトラマン」がある。これを見ることによって基本的なウルトラマンの設定が頭の中にインプットされている。
・怪獣や星人が襲ってくる
・ウルトラマンは巨大化して怪獣・星人などと戦う
・ウルトラマンには必殺技がある
というような感じだ。これらを頭の中にたたき込んだ上で、ウルトラマンとか怪獣とか星人とか、その他もろもろの科特隊のジェットだとか基地だとか、そういうものを使って、自分なりにもともとのウルトラマンでは描かれていないとんでもないストーリーを勝手に築き上げて遊ぶわけだ。この頭の中にある「ウルトラマン」は誰かと共有するためにごっこ遊びではない。自分による自分のためだけの一人遊び専用の「ウルトラマン」だ。だからこそ自分の中では究極かつ理想の「ウルトラマンごっこ」と化す。

5月15日(日)のエキスポIMAX、最後の回で見た「シン・ウルトラマン」は、庵野秀明の脚本を完全100%の純度で樋口監督が映像化したとのことだが、もうそうとしか言いようがない。徹頭徹尾、これは「庵野秀明によるウルトラマンごっこ」だ。それもただのウルトラマンごっこではない。一人遊び専用の「庵野秀明のウルトラマンごっこ」を、「みんなで遊ぶ用に作り直した庵野秀明のウルトラマンごっこ」になっているわけだ。しかも「今の庵野秀明による最新のウルトラマンごっこ」だ。かつて庵野秀明が経験した「最初のウルトラマンの基本設定」のうち、「ここを守っていればギリギリ、ウルトラマンでいられる」という部分はちゃんとみんなで共有できるようにしておき、それ以外のあらゆる部分を「オレの考えた最強のウルトラマンごっこ」にしているわけだ。

・着ぐるみの使い回し→いいや、そうではない。何か理由があるはずだ。そう、例えば実は生体兵器であるから、とか。
・なぜ人間サイズだったり巨人サイズだったりするのか→こういう仕組みがあるのだ、だから人間にも適応できるのだ!
・もし現実世界にウルトラマンがいたらどうなるのか?→世界中の国の政府が黙っているわけがない!
・ウルトラマンvsウルトラマン→ソフビで2体あるんだからやるに決まってるだろ!なぜ2体持ってるのかって、親が気づかずにもう1個買ってきたからだよ!
・高速回転してキック→ソフビのウルトラマンで遊んだらああなるんだよ!むしろあの空を飛ぶ姿勢でできる最もカッコイイ技と言っても過言ではない
・怪獣の出すビームを避けない→避けるわけないだろ!ウルトラマンだぞ?(怪獣のソフビの前に、ウルトラマンのソフビを持っていく感じ)
・メフィラス星人めちゃくちゃ強い→決着はつけない。なぜなら、それぐらいの知性があるからだ(後方腕組み彼氏)
・ゼットンの火球は出した瞬間に地球が蒸発するぞ、設定ミスだな、HAHAHA!→いーや、何も間違っていない!なぜなら、まさに殲滅兵器だからだ!!!(HA!HA!HA!)
・ゼットン強すぎワロタ→ゼットンは宇宙戦艦なんだよ!!!(もはや当初の設定と戦艦好きとがミックスされてほとばしる脳汁プッシャー)
・うわー、別次元に引き込まれるゥゥゥゥ!→と言いながらウルトラマンのソフビを手に持ち、掃除機に吸い込まれそうになりながら決死の脱出ごっこを繰り広げる(あのシーンを見ればごっこ遊びは確信できるはずだ)
・目が覚めて終わり!→ふぅー、メシ食って寝るか(疲れた疲れた)

想像すべきは、「庵野秀明が適度なサイズのウルトラマンのソフビを手で持って『ウルトラマンごっこ』をしている姿」だ。本来であれば庵野秀明の脳内にしかいないはずのイメージを、樋口監督をはじめとするスタッフが全力で、我々に見せてくれたもの、それが「シン・ウルトラマン」、ということになる。実に清々しい。

面白いのは、この「ごっこ遊びの基本設定」として「曲」が入っているという点。最後のスタッフロールでずらーっと並んでいるが、まさにあれこそ「ウルトラマンごっこ」をするとき、バックでかけておくべき曲、あるいは脳内でならすべき曲なのだ。そういう視点で見ると、かなりいい選曲だし、だからこそ「きっとこの曲とか歌はウルトラマンに合うはずだ」という感じになる。
特に予告編のこの曲が好き。本編でもめちゃ良いシーンで流れてくれたので「キタキターッ!」となる。こういうところが好き。
だからこそ、限界点はある。もし「シン・ウルトラマン」に不満点があるとするなら、それは「自分のごっこ遊び」ではないからだ。なので、この不満点は極めて個人的なモノになる。
・子どもを助けにそこで出て行って誰も止めないの?!お前が行くのかよ!?(大混乱)
・最終殲滅兵器ゼットンのところまで隊の装備とか宇宙船とかで向かい、最後にゼットンの目の前で主人公を放出し、そこでいつもの「ウルトラマン出現(巨大化)」のシーンとともに「ゼロ秒」になってあの火球と激突!みたいな方が良かったなー(でも出現シーン2段重ねも良いね!!)
マジでこれぐらいしか不満点がない。そう、どっちも取るに足らない些細なモノだ。むしろ、こういう「ごっこ遊びの楽しさ」を、あのウルトラマンで再び思い出させてくれた点に感謝している。「そうそう、マジでこんな感じだった!」というシーンの連続で、思わず感動してしまった。この場合の感動というのは涙を流すとかではなく、「今まさにオレ達は新しいごっこ遊びをしている!」という感覚、それも「庵野秀明と一緒にごっこ遊びしている」という奇怪な感覚だ。そういう視点で見れば、ウルトラマンのあの硬直したポーズでくるくる回転したり、ぴょいっとまるでチェスの駒のようにうしろにジャンプして移動したり、ビルの間を飛んでいったり、そういう「本来であればもっとリアルに描くであろうアクション」を、特撮とか言う次元ではなく、まるで「おもちゃ」のように描いている点にも納得がいく。というか、「特撮番組を見てそのまま遊び始めたときの興奮」みたいなものを再現していると考えた方がわかりやすい。破壊のシーンも、戦うシーンも、もうあらゆるものがそういう感じで埋め尽くされており、大変満足いたしました。

逆に言えば、そういう「めちゃ面白い特撮を見た後にその影響を受けまくって、手元にあるおもちゃでごっこ遊びし始める感覚」をあまり持っていない人の場合、この「シン・ウルトラマン」が表現しているものは何もわからないので「なんだこれは……?」となってしまうだろう。そういう意味では作品として昇華されたものではなく、むしろ退化しているとすら言えるのだが、そこを自覚しているからこそ、「樋口監督」なのだろう。劇場公開する以上、この究極のごっこ遊びを、我々のような第3者が客観的に見たときに、庵野秀明の主観的な視点を再現できるだけの力量を持った監督が必要となる。普通は絶対に無理なのだが、樋口監督は違う。これはもう断言できる。今作「シン・ウルトラマン」最大の功労者は間違いなく樋口監督だ。これまで様々な作品を通じて庵野秀明という人物を知っているからこそ、ちょうど良い塩梅で映像化できたわけだ。もしもこれが庵野秀明監督になっていたら、もはや我々には理解できないほど幼稚でグロテスクなものが出現し、「ふざけているのかお前は?!」となっていたはず。カルピスの原液一気飲みとか、青汁の原液一気飲みどころではない、純度100%のアルコールを「これはノンアルコールビールです」と言われて渡されて飲まされるのに匹敵する悲劇が起きていたのではないか。そう考えると、これは奇跡的な作品だと言える。

さらに脱線すると、「シン・仮面ライダー」はもしかすると、「公園で仮面ライダーごっこ」をしているときのような気分にさせてくれるようなものになるかもしれない。残念ながらそういうタイプのごっこ遊びをする子どもではなかったので、次の「シン・仮面ライダー」は「一般人」的な視点でついに庵野秀明作品を見る機会となってしまうのかも。ガクブル。なぜウルトラマンを見た結果、仮面ライダーについて困惑することになっているのだ?Why?
というわけで、個人的には「100点満点中、200点満点という奇怪な満足度」ということになりましたとさ。いやー、マジで面白かった。まさに「空想と浪漫」、まさに庵野秀明と樋口監督の「友情」、まさに「空想特撮映画」、純度1000%の「空想」から作った新たな「特撮映画」!これは確かに、はかどるぜ!