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「君たちはどう生きるか」は商業として創作する全員が見るべき、その理由をここに記す

以下、感想文。いっぱいいっぱいで箇条書きでしか書けない。これはレビューではないし、批評でもない。ネタバレ満載なので、まだ見ていない人は回れ右してまず「君たちはどう生きるか」を見てから読んでくれ。

◆大前提

・「風立ちぬ」は創作者のジレンマの映画。美しい作品を作りたいと願うが、そうやって作った作品は悪用されるもの。そういうのとは無関係に純粋に自分の造りたいモノを作るが、そのためにあらゆるものを犠牲にしている。宮崎駿は今まで自分の作品を作ってきて、自作を見て泣いたことはないが、この「風立ちぬ」だけは初めて泣いたそうなので、これは宮崎駿の感情的比喩としてはほぼ満点に再現できていると見て良い。
・宮崎駿が二度と見たくないし若気の至りだし恥ずかしすぎると言っている黒歴史が「紅の豚」、これは理想化されすぎている。「紅の豚」と「風立ちぬ」は対になっていると見ると合ってる。「風立ちぬ」を見てから「紅の豚」を見るとよくわかる。宮崎駿のかっこつけの部分、例えばあのヒゲだとか、エプロンだとか、ああいうもろもろのかっこつけの部分が「紅の豚」には全部出ている。「風立ちぬ」はそれでもなおかっこ悪いと知っていても、間違っていると知っていても、自分はそれでも作り続けたいし作ってきたのだという言い訳がどれほどむなしいものかを描いている。
……というようにオレは解釈している。どこまでも個人のエゴ。他者に向けて作られた作品ではない。これを今回の君生きバードでは他者に向けて作った。やったぜ。

◆大前提2

庵野秀明とは違う。単一の人物を自分自身だと見立てたり、露骨に誰かを想起させたり、そういうのは今までやってこなかった。できるだけ昇華させてきた。今作はそういうのをあえてやめて、「パンツを脱ぐ」のをもっとドストレートにやってくれた。もう次の作品を作ることができるとは限らないので、最後の最後に決断してくれたのだろう。また、スタジオジブリが一度なくなっており、今回のスタッフはサイトで公募した面々。なので、この「君生きバード」はスタジオジブリを巡る話と見て間違いない。違う意味で涙が止まらない。

君生きバード、公式のアイコン画像がコレ

◆君生きバード


・最初は「また風立ちぬみたいなのを作るのか?いい加減にしろ」と思った。
・火事のシーンはよくできてると言うよりも何度も出てくる。何かを焼き払いたいのか。これまで積み上げた全てか。創作者は時折、過去の自分の作品全てをこの世から消し去りたいと思うことがある。黒歴史だからではなく、不出来だから。そんな不出来なものを賞賛されるのが腹立たしい。
・母親は火事で死んでしまった。父親と一緒に東京を離れる。父親は再婚する。再婚相手の女は母に似ている。「似ている」、そして妊娠している。妊娠しているのでこれから弟が生まれる。父親は共通だが母親は別人。半分だけ血がつながっている。スタジオジブリの模倣者なのか後継者なのか。半分だけ継いでいる。宮崎吾朗は宮崎駿のコピーではない。遺伝子を半分だけ継いでいる。他の人も同様。親のコピーではない。なお、今作のスタッフロールに宮崎吾朗の名前がある。
・だだっ広い家には誰もいないはず。でもお手伝いさんがたくさんいるが、みんなおばあさんばかり。老化している。誰もいなくなったスタジオを思い起こさせる。広いけど誰もいないねというのをドキュメンタリーで見たことがある。その時の気分がコレなのだろう。タバコ吸いは大変。宮崎駿はタバコ吸い。肩身が狭い。タバコを調達するのも大変。まさにそういう実感。このあたりからオレはイヤな予感がしている。
・トランクを開けて中の缶詰とか砂糖とかに喜んでいる。開ける前から「良い匂いがするね」などと言いながら勝手に見ようとしている。なんか古参スタッフみたいな感じだ。中身を見もしないのに「きっと良いモノに違いない」と言っている滑稽さ。これはもう悲惨としか言いようがない。でも実際、良いモノを持ってきたのだ、パヤオは。古参大喜び。見る前から。これ、お婆さんばかりというのがポイントである気がする。お爺さんは床に伏せている。
・アオサギ(=君生きバード)は覗き屋。これまでは遠くから見るだけだったのに今回は屋根の下まで入ってきた、珍しい。屋根の下というのはこの作品のことだろう。実際、このアオサギはどう見ても鈴木プロデューサー。いつも青臭いことばかり言っている詐欺師だからアオサギなんだろうか。山師ペテン師の類いなのは間違いがない。
・大叔父が建てた建物。二度とは入れないように埋めた。なのに入ろうとする。スタジオジブリはもう埋めた、なくなった。なのにまたスタジオジブリ作品を作ろうとしている。滑稽だろう。同じだ。やめろやめろ!
・大叔父は本ばかり読んである日突然消えたそうだ。宮崎駿も凄まじい読書家だ。それでいろいろな本を読んでインスピレーションを得てしまって新作を作る、というループを繰り返している。本ばかり読んでおかしくなったそうだ。宮崎駿もおかしい。
・このもう誰もいないスタジオジブリに、アオサギだけが入っている。鈴木プロデューサーだけがここでひとり。誰かが来るのを待っている。
・主人公は見栄っ張りの父親のせいで、転校初日からダットサンに乗ってやってくる。そのせいでみんなに敵視される。事実、みんな丸坊主なのに髪を生やし、服装もきれいで見映えがする。そのせいで初日から殴り合いの喧嘩。実際、出身が違う、出生が違う、元が違う。だから違う能力がある。
・自傷。石を拾って自分のこめかみを激しく打ち、血がドクドク流れる。これで父親が怒り狂って、誰にやられたのかと聞いてくるが、実際には自作自演。主人公は決して清廉潔白ではない。これは「風立ちぬ」よりももう一歩進んでる。「風立ちぬ」では創作者の純粋さみたいな感じで描いていたが、宮崎駿は違う。みんなのせいでオレは傷ついたと言っているが実際には自作自演に等しい。引退騒動とか。平気で嘘をつく。決して清廉潔白で良い人物ではない。これがこの先もずっと徹底していく。
・みんなが主人公を探すシーンが頻繁に出てくる。宮崎駿も同じような感じを抱いていたのだろう。離れる度にみんなが呼ぶ。それで仕方なく戻る。
・武器を作る。タバコを盗み、それで懐柔して、刃物の研ぎ方を教えてもらう。あのお爺さんはパクさん的な人だろう。悪い煙草喫(タバコのみ)の仲間だ。でも作品の基本的な部分を教えてくれた。宮崎駿にとって作品を完成させることは武器と同じなのだ。これは今までになかった視点。でも確かに宮崎駿にとっての武器とは創作であり、作品を作ることなのだな……「風立ちぬ」で戦闘機を作っているというのは宮崎駿自身の趣味嗜好もさることながら、本当に「武器を作っている」と思っていたのだ。それも人殺しの武器。
・おばあさんが自分もタバコが欲しくて、もっとちゃんとした弓矢があると教えてくれる。それで自分にもタバコをクレと言ってくるが、主人公はそれを蹴る。どんなに稚拙でも、手作りで自分の作品でなければ戦う武器にならない。借り物では良くない。これは原作モノではなく、自分でゼロから造る方が絶対に良いという戒めであろう。最初の矢は稚拙で、尖っているけど飛ばない。作品としては尖っているのだがヒットしない。良い矢=作品であってもそれだけではダメなのだ。
・アオサギの羽根は拾って手に持って集めても、外に出ると消える。鈴木プロデューサーは調子の良いことばかりを言うけれども、スタジオジブリの外に出ると消えてしまう。スタジオジブリの中でだけ力を持っている青い羽根。もう明らかに青い羽根は「幸せの青い鳥」と同じで、幸福、しあわせ、そういう良いモノ。はかなく消えるもの。鈴木プロデューサーはそういうようにして幸せを運ぶ青い鳥ではあるけれども、それはサギ。嘘。
・そのアオサギの羽根から矢を作る。鈴木プロデューサーは確かに山師だが、身を切る詐欺師なのだ。そういう意味では有能ではある。この羽根を作るため、ごはんを盗んでノリにしてくっつけ、さらに残ったご飯は食べる。宮崎駿自身の良くない面=パクる面を象徴しているように思えてならない。ただ、パクるところを誰も見ていないし気づきもしない。でも本人自身は知っている。そうやって盗んだものをノリにして武器=作品に青い詐欺師の羽根をくっつける。作品の完成!この矢を試し撃ちすると、勝手に飛ぶ。放たれた矢=作品に、鈴木プロデューサーの詐欺的能力=広報とか宣伝の力を付与することで、勝手に飛ぶ=ヒットする。これで武器が完成した。
・再婚する父の相手の女が妊娠しているのに森の中へ消える。矢を作りながらソレを主人公は見ていたが、自分の矢を完成させる方を優先する。見て見ぬふりをしている。自分の矢の方が大事。自分の作品のために、いろいろなものを犠牲にしている。「風立ちぬ」と違い、見ているし知っているがそれでも無視している。宮崎駿はそのことが汚いと思っている自覚がある。
・みんながいなくなった女を捜している。森の方へ行くのを主人公は見た。老婆たちの一人だけが付いてくる。森の中には何もないしそんなところに行ったわけがないと言って止める。でも石が敷き詰めてあり、これは道だと。一見すると無謀に見えるが、決してそうではない。かつてそこには道があった=誰かが昔に作った。その道を通った先には、あの大叔父の封印された屋敷がそびえ立っている。今度は入口があり、勝手に明かりが付く。そこに誘われる。誘うのはアオサギ。宮崎駿にとって作品作りというのはそういうものなのだろう。完全オリジナルではない。温故知新みたいなもので、そうやってスタジオジブリという創作の城へ至る。
・老婆は「これは罠だ」と言って必死で止めるが、主人公は中に入る。門が落ちて閉まり、外に出られなくなり、アオサギが実体化して飛び回る。スタジオジブリに入ると外に出られない。ここは良い作品を作るスタジオだが魔窟。良いように見えるがそうではなかった。宮崎駿はもともとアニメの労組的な立ち位置だったが、いまや逆転しており、アニメーターを使い潰している。人を食って生きている。スタジオジブリは条件が良い労働環境に見えるがそうではない、これは罠だった。中に入ると閉じ込められる。鈴木プロデューサーが中で舞っている。
・主人公は火事で焼け死んだはずの母を見つける。近づいて触れるとドロドロに溶ける。アオサギがそのことを非難する。次はもっとちゃんとしたのを作らないと、などとのたまう。鈴木プロデューサーのような感じのプロデューサーが作るものは虚像であり、本物ではない。求めるモノがあるよと言われて中に入って、確かにそれらしいものはあるけど触れると溶けて消える、実体が無い。スタジオの中に入ると初めて実態を知ることになる。見かけ倒しで思っていたのと違うということで怒ったとしても、アオサギは「もっとちゃんとしたのを作らないとな~」とうそぶく。これは宮崎駿であり、君たち=アニメに関わる者、創作に携わる者のことだろう。やはりとんでもない説教映画で間違いない。
・主人公は自分の作った矢を放つ。勝手に飛び、アオサギに致命傷を与える。アオサギ自身の一部も使って作られているわけなので。勝手に飛ぶ=作品のヒット、そのこと自体でプロデューサーも傷つく。穴の空いた位置がくちばしのド真ん中だ。嘘から出た誠だろう。いい加減なことばかり言っていたが、作品の大ヒットによって段々と本当にしなければならなくなってえらいことになり、今までアオサギのふりをして悠々と飛んでいたのに、ごまかしきれなくなって、「中の人」が出てくる。くちばしの中に最初は歯があり、でかっぱなになり、顔まで。あと鼻が大きい=スケベということなので、これはもう言い訳のしようがない。俗な人の象徴だろう。最初は本物のサギのようであり、でも実際には違う、スケベ野郎。もうこのあたりから段々と隠さなくなってきた。最高に面白い。
・今までの宮崎駿作品は「上」に行くことが多かった。今回は「下」へ沈む。「後悔しても知りませんぜ」とアオサギは言う。この屋敷の上に大叔父がいるのが見える。天井は星空のような模様。明らかにこのスタジオの主、宮崎駿=大叔父。このスタジオの主だ。偉そう。下に沈む時、アタシはいやだと言っているのに引きずり込まれるのも見える。そういうケースもある、ということなのだ。
・「下」は死者の世界。これは業界の中に入ったということだろう。実際、遠くに見える船は全て幻だと言われる。これは他作品のことか。乗っている人は一生懸命船をこいで前に進んでいるが、みんな身体が半透明でうつろな姿をしている。服を着ているのでハッキリしているが、でもモノを言わない。発言しない。
・島には背の低い壁があり、金色の門がある。門に刻んである台詞がヤバすぎる。この門をくぐると死ぬ、ぐらいの意味。
・主人公はこの門の前に立つ。様子をうかがっていたたくさんのペリカンが一斉に押しかけてきて、門を突破して中に入ってくる。食えと言ってつぶやいている。どう見てもこれ、ペリカンと言っているが「コウノトリもどき」だろう。子どもを運んでくる鳥っぽいだけ。コウノトリではない。あくまでもペリカン。鳥=プロデューサー的な人間の比喩と見て間違いない。あるいは製作委員会。とにかく「モノを作らない業界関係者」だ。それが押しかけてくる。
・老婆だった一人が若返っていて、ペリカンどもを追い払う。そんなものを持っているからだと言われる。青い羽根。お金や知名度のことか。そういうものを持っているから、うさんくさいやつらが群がってくる。自分たちもそのおこぼれに預かろうとしている。これを追い払った。古参の若い頃。なので明らかに誰か、そういう「導く人」を象徴している。宮崎駿の恩師に近い。この「下」というのはかつて宮崎駿に起きた出来事なのだろう。なので今までの知りうる情報では整合性が取れないが、このことが重要。「君たちはどう生きるか」そのものだ。過去を知れ。
・若返った老婆の着物、模様が車輪。輪廻か?繰り返す。
・「墓の主」というのがいる。墓なので既に死んでいて、封印されている。過去の名作みたいなものだろう。それを作った人がいる。姿形は見えないが、それが来ているけれども追い払うことに実は成功している。過去の成功とか栄光とかそういうものだろう。ペリカンが群がっていたことからも、門が金色でやたら立派だったことからも、そしてその割には門の左右の壁は低く、誰でも乗り越えることができるし近づくこともできることからも、「誰もが知っているし見たことがある」レベルの作品を指している。宮崎駿の作った作品自身も比喩しているのだろう。離れる時に「後ろを振り返るな」と言われるので、確実。過去の成功を振り返るな。やっぱり説教映画だったよ。うれしいね。
・船を海にこぎ出す。船を押せと言われるが幼い主人公にはできない、無理難題だ。若い身空での作品づくりとはそういうものなのだ。それで溺れかけて船の上に引き上げてもらう。風をつかまえた=前に進めるようになった。ふたりしかいないので、過去の二馬力のことか。とすると、やはりこれはパクさん的な立ち位置か。いろいろ教えてくれるので。
・浮きが海の上にあり、グロテスクな魚が引っかかっている。それを二人で引き上げる。そして島へ持ち帰る。みんなが寄ってくる。収穫があったのを示す旗のせいだと言う。明らかに何かヒット作品を生み出した、文字通り大きなのが釣れたということだろう。「あいつらは殺生できない」という台詞。この世界で殺すことができるのは自分だけだと。その分け前をもらいにみんなが群がっている。主人公がお辞儀をすると、お辞儀し返しているのが多い。なので礼儀正しいというのがわかる。そういう業界関係者がいる。分け前をもらいたい。
・この釣った魚、おなかのド真ん中から切る。きれいに女は切る。主人公が切ると上手に切れない。内臓が溢れる。それはワラワラが空に飛ぶための大事なものだと言われる。「作品のキモ」のことだろう。本質、ヒットしたその真の理由。「柳の下のドジョウ」みたいなものだ。二番煎じ、三番煎じ。でも空を飛ぶ=上昇するために必要なものでもある。これ、おそらく偉大な作品があって、それを元ネタにしてみんながパクることを示しているのだろう。でも、その中でも本質的な部分というのがあり、それをパクる=学んだ作品は上昇する=日の目を見る。良い作品の芽でもある。
・主人公は疲れ果てて、食事のテーブルの真下で寝ている。周囲には老婆の人形。この老婆の人形、もう一箇所では棚に並んでいるシーンがあり、台詞に応じて笑っている。そして主人公を守っているという。ここから逆算して、この「君たちはどう生きるか」の序盤を改めて思い起こすと、やはりこの老婆たちは古参スタッフのような、自分自身を支えてくれる人、守ってくれる人たち。そういうのを象徴している。そして「触るな」と念押しされる。あくまでも仕事仲間であって、それ以上のものではない。後のシーンで「もうこの家に50年近くお仕えしてきましたが」みたいな台詞を主人公の父親に老婆の一人が言うシーンがあるので、スタジオを、あるいは作品を生み出す仕組み自体を支えてきた人のことだ。スタッフはスタッフであって、主人公=創作者を守ってくれるというか、守ろうとしてくれてはいる。でもだからといってこちらから触れると壊れるのだろう。だから陶器の人形のような、そういう描かれ方をしている。
・ワラワラというのがいる。かわいい見た目。いっぱいいてかわいい。これが空気を吸って大きく膨らんで、空へのぼっていく。「熟す」とそうなるという説明がある。最初は初心者で、段々上手になり、そして旅立っていく若い才能のことだろう。これをペリカンたちが次々と食べていく。若い才能が食い散らかされていく。薄給のアニメスタジオか?それとも才能があるのにだまされてつぶれていく若い才能か。
・それらを火を使う女の子がすべて焼き払って追い返す。その過程でワラワラも燃えてしまうのがいるので主人公はやめろと叫ぶ。このペリカンに食われると終わりだが、だからといってこのペリカンを全て追い払うと、ワラワラも死んでしまうことがある。十把一絡げに非難するなと言うことか。もうこの火に驚いてしばらくは戻ってこないと言われ、ワラワラがいっぱいのぼっていく。子どもとして生まれるのだという。やはり作品のことだろう。火は赤字か。火の車。作品を作るために赤字になる。びびってプロデューサーとか製作委員会は逃げ出す。利益が目的なので。それで言うとワラワラは作品の生み出す利益とか果実、そういうのもさしているのかも。作品を生み出す仕組み。作っている間は潜水しているようなもので、数多の才能を食って、あるいはプロデューサーがヒットを狙って、いろいろな思惑で作り出されていく。過去のパクりみたいなのもある。でもそのうちのいくつかは日の目を見る。
・主人公が夜中にトイレに行くと、近くに瀕死のペリカンが落ちている。炎に焼かれてもうすぐ死ぬ。大赤字プロジェクトかな?それでここは地獄だと言う。どこまで高くとんでも必ずこの島に戻ってくる、と。ワラワラを食べなければ死ぬ、魚は少ない。無理やりここに連れてこられた。つまり望んでこの業界に来た、あるいはスタジオに来たわけでは無い。食い物にしているのも好きでやっているわけではない。食べて生きていくためには仕方なくこういうことをしているのだ、と。作品づくりは綺麗事ではない。素晴らしい作品=魚は少ないし、ありつけることも少ない。そしてこのペリカンはそういう諸々を言って死ぬ。主人公は埋めてやる。空高くとんでも、ペリカンはみんなこの島に戻ってくるというのも不吉。この業界から離れられないということか。
・新しい母のところへ行くために旅立つ。お供はアオサギ。途中で穴の空いたアオサギを直してやる。アオサギ自身では修復できず、穴を開けた本人しか塞げないそうだ。なんだ、ハウルの動く城か?細田守に謝れ。鈴木プロデューサーに大ダメージが入ってもう飛べなくなるような大失態、鈴木プロデューサーはクリエイターではないので穴を塞げない。穴を開けた張本人=宮崎駿しか塞ぐことはできない。これは創作する者と、それをプロデュースする関係者の関係性と同じだろう。作品によって開けられた穴は、作品を作った者だけが埋められる。不格好だけど。でもそのおかげでアオサギは「中の人」から、再びアオサギになって飛べるようになる。もうやだ、なにこの関係性。
・途中で鍛冶屋の家がある。ここを通り抜けないとたどりつけない。インコがいる。こいつらに鍛冶屋はもう食われたのでは?とか不穏な台詞がある。鍛冶なのでやはりモノを作る人の比喩。それをもう隠さなくなってきた。鍛冶のシーンが印象的なのはもののけ姫か?そのときの話なの?
・インコと言うのだけど、これ「ものまねする」って意味だよな……そしてやはり鳥なので、創作側ではない。ペリカンは才能を食っていたが、インコはパクって殺して食うのか?さっきのペリカンは「鳥」の姿を維持していたし、「墓の主」に群がろうとしていたので、作品自体を見抜く真贋の目はある。どうもインコにはない。二足歩行だし、アオサギの中の人っぽい。もう直接的に食うことを目的にしている。しかも主人公を屋敷の中に入れてから、案内し、その後ろには包丁とかを隠し持っている。それで机の上に寝転がれ、みたいな。もうむちゃくちゃだ。
・アオサギは自分が囮になってくれてる。それにつられてインコの一部が追っかける。なので、プロデューサーもそういう目くらまし的な働きはできるし、それに釣られるほかのプロデューサーもいるにはいる。なんだかんだ言いながら主人公をかばってくれている。
・火で追い払ってもらい、火を通って移動する。この火を使う女はさらっと言ってるが、主人公の父親の再婚相手の女の姉。主人公の実の母親の若い頃の姿。途中に出てくる話によると、大叔父の屋敷に1年ぐらい入って神隠しみたいになって、1年後に消えたままの姿でまた外に出てきた、と。大赤字を生み出すけど偉大な作品を作る者?本人自身は既に死んでいる。主人公にとってものすごく大切な人。炎の遣い手。すごくこの世界=地獄について詳しい。どこが出口かも知っているし、インコだらけのところを手を引いて出口のあるところまで連れて行ってくれる。「この庭で迷うと死ぬ」とも言っている。これもパクさん的な立ち位置か。もう亡くなってるし。作品自体はスゴイが、利益を生み出すようなものではないのも確かだし、スタジオジブリのスタッフも死にかけたという話がある。でも業界=地獄について詳しく、インコ=悪質なプロデューサーを回避する知恵も経験もあってすごく頼りになる。そういう立ち位置の人がいるのだ。
・一方の現実世界では、大叔父の屋敷は実はある日空から降ってきたのだ、と。隕石のような。その中に入った大叔父が、何人もの犠牲を出して屋敷にしたのだと。スタジオジブリのまんまじゃねーか!しかも複数世界にまたがっている、と。確かにスタジオとはそういう交差する場所だろう。創作世界、現実世界、そういうものの交差する場所。これを完成させるため、建造するために多数の犠牲があったのだ。
・屋敷でいくつも番号があるドア。ドアの両脇に座って待つためみたいな椅子。ドアノブに手をかけたまま、外に出る。自分のもといた世界に戻れる。でもドアノブから手を離すともう二度と戻れない。やはりこのアニメ業界というか、創作全般の業界のことか。入口は地獄のようだし、だましうちだし、食い物にされるし、ひどい世界だ。この創作をお仕事とする世界から外に出る=一般的な社会に戻ること。でも一度戻ると、もう二度と創作の世界には戻れない。手を離すと二度とそのドアの位置はわからなくなる。これ、宮崎駿が実際に、アニメを作ることをやめたスタッフで、もう一度戻ってこようとした人を何人も見てきたのだろう。スポーツ選手と似たようなもので、引退というか、やめてしまうと、もう二度と戻れないのだ。この地獄には。
・主人公は戻る。探しに来た父親は、息子がインコになったと言って騒ぐ。インコ=うさんくさい世界の象徴。自分の子どもをこんなうさんくさい業界に入れてしまった親の嘆きの声。取り戻そうとしている。でもダメ。
・主人公はついに、探し求めていた、自分の母の妹を見つける。帰れと言われる。ついにお母さんと呼ぶ。この場所はさっきの「墓の主」の場所と同じようなものに見える。そして「石」は歓迎していない、と。一度死んだ作品をリメイクしようとしてもダメと言うことか?あるいは偉大な作品を現代風によみがえらせることはできない。ただ、自分の母親として呼びかけると通じたので、そういうことなのだろう。血を分けてはいないが、血を分けた親のように思っているのであれば、死んでしまった偉大な作品でも確かに生き返らせることができるし、子どもを生ませることができる。単純に生き返らせようとしてもダメ。聞いてるか、スタジオポノック、お前のことだぞ。スタジオジブリを生き返らせようとしても、生き返らないのだ。表面だけパクってもダメなのだ。本当の血を分けたモノのように扱わないと。
・墓の主みたいな上に横たわる、子を宿した次の母、頭上にまわる紙。これが高速回転してかみついてきて、口を塞ぎ、顔に張り付き傷つける。紙だからペラペラ。でも明らかに悪意があって、よみがえらせるのを妨害している。でも紙だ。ペラペラだ。最悪のメタファーだな……
・一方でインコたちは大騒ぎ。捕らえた火を出す女をかついで、大叔父=神に物申しに行くと言う。アオサギによると、この世界はもうインコだらけでいっぱいいっぱいでギチギチで溢れそうになっているらしい。もうこの地獄は支えられない=アニメ業界が破綻しそう。王のインコがみんなを代表して、赤字を生む死んだ創作者を担ぎ出して、大叔父=宮崎駿のところに物申しに来るらしい。この惨状をなんとかしろ!と。「いや、そんなこと言われても……」という感じしかしない。アオサギはこの惨状のことを知っている。もう業界はめちゃくちゃだ。このことは過去のドキュメンタリーで明確に言っていた。
・インコの王が階段を切り落として主人公が後追いできないようにして進んでいく。主人公は気絶した夢の中で大叔父に会う石の道を歩く。このシーンのうち、暗いところから明るいところへ進むシーンが何度も出てくる。
・大叔父は机の上に積み木を積み上げていて、汗水垂らしながら、ちょんと突っつくことで、1日だけ時間を稼いだと言う。「たった1日ですか?!」と主人公が言う。この崩れかけの積み木の城、どう見ても業界であり、スタジオジブリであり、そのようなアニメスタジオのことだろう。積み木は完成した作品。作品自体を増やしたわけではなく、つっついて崩れかけたバランスを持ち直させているところから、既存の作品を使って、例えばBlu-rayだとか配信だとか、そういうのでスタジオが食いつなぐような意味合いだろう。新しいモノを作ったのではなく、バランスをいじくっただけ。だから1日しか時間を稼げない。何の時間か。崩壊までの時間。
・インコの王様が大叔父に直談判しに美しい世界を進む。火を出す女の子をかついでいる2名が涙を流して感動しながらこんな美しい世界は見たことがないとか、あ、ご先祖様!とか言っている。本物の良い作品=美しい世界を見たことがないのだ。王はそういうのを無視してずんずん進んで、大叔父のところへ。大叔父はついに来たか、久しぶり、みたいなことを言いながら、ちょっと歩こうか、みたいに言って、二人でこの美しい世界を歩いて行く。
・この王、社長っぽい。インコなのでクリエイターではないのは確か。
・主人公も暗いところから明るいところへ至るかつて夢で見た道を通って大叔父のところへ。これまんまだと思う。「夢で見た」のはその通りで、宮崎駿に会うのは夢なのだろう。あるいはそういう巨匠に会うこと。
・大叔父のところでは巨大な石が浮かんでいる。明らかにヤバそうな巨大な石。「墓の主」も石。積み木も石。この石は明らかに作品のこと。大叔父の積み木は、宮崎駿が作ってきた作品。それがもうすぐ崩れて消える。石との約束で、この美しい世界を引き継げるのは血のつながった人間だけ、一族の者。これは暗に、創作の才能はやはり遺伝する部分があると言っている。そして大叔父=宮崎駿は、継いで欲しいと思っている。でも主人公は拒否する。自分は自分のこめかみに石をたたきつけて傷を付けて誰かにやられたかのような嘘をつく汚れた人間だから、と。でもだからこそふさわしいのだと大叔父は言う。創作をする者に清廉潔白さを求めるなということだろう。同様に、そういう卑怯な一面がなければ、創作する者になり得ないし、美しい世界=虚構=かつての自分の作ったような作品は作れないのだ、と。勝手に美化するな!みたいな感じ。清濁併せ呑む力が必要、みたいなものだろう。実際、途中で主人公とアオサギが大叔父のところに向かう途中で、落ちている石、積み木のなり損ないを見るシーンがあり、実は主人公はその「積み木のなり損ないの石」を拾っている。それを触るなとアオサギは言うのだが。
・インコの王はこの積み木の世界を崩したくない。大叔父になんとかして欲しい。それでこっそりと主人公たちを尾行している。もうこのあたりからヤバすぎる描写がいよいよ出てくる。
・大叔父の手元にある石の積み木、汚れておらず、悪いものでもない、それが「13個」。それで組み上げられた世界。宮崎駿の認めるところのちゃんとした作品は13作品で、それらがこの城=スタジオジブリを支えている。あるいはそういう作品が業界を支えている。でももう支えられない、崩れる。だから継いで欲しい。でも主人公は拒否する。それでインコの王=作品を作らないくせにこの世界の存続=スタジオの存続、あるいは業界の存続を望むモノが、大叔父の積み木を勝手に組み上げる。バランスは崩れ、崩壊する。創作する者でない者が、作品に手を出して、維持しようとして、世界が崩れる。そのまんまだ。タイトル回収、「君たちはどう生きるか」=過去の名作に頼らずにどう生きるか。
・主人公は答えを出す。現実世界に連れ帰る、と。アオサギは友達だと言われる。アオサギはびっくりする。でもそういうことなのだ。ああいう人間も必要なのだ、詐欺師でペテン師で悪人だけど、でも一貫して主人公を助けている。創作する者=「君たち」を助ける者が、創作する者以外に確かにいる、インコとかペリカンはダメ。
・石は崩壊し、美しい世界は崩れ、炎上し、飛び散り、崩壊する。魔法は解け、現実に戻る。主人公は東京へ帰る。終。
・途中で主人公が矢を作っている最中、「君たちはどう生きるか」の本を読んで感動して泣くシーンがある。母親が大きくなった主人公に読んで欲しいというのを書いてあるのを見つけて読む。この作品「君たちはどう生きるか」自体がそういうものだ。商業作品を作っている途中の者のために作られている。

◆超個人的感想
・こういう作品好き。なんでもかんでも勝手に創作者自身のいろいろに結びつけるのが大好きマンのための作品。
・同系列の他作品と比較して、私小説じみた部分を徹底的に昇華しているのは、相変わらずの宮崎駿監督。これまでの「技術」の集大成に思える。
・最後のスタッフロールを見て感心した。アニメスタジオでどこが請けたのかとか。あと予告編があるみたいだ、スタッフロールを見る限り。さっさと公開して!
・あの君生きバードだけのポスターだけにして、公式サイトもなく、宣伝もしないというのは、明らかにそれ自体がこの作品の意味だからだろう。さすがアオサギ、考えることは確かに良い線行ってる。
・総括すると、スタジオジブリの物語であり、宮崎駿の業界人としての人生であり、その説教を昇華させたものであり、まだ見ぬ業界を目指す若者への公開大説教であり、業界への警告と警鐘であり、歴史でもあり……そういういろいろな、自分自身が経験したものを後世に伝えるのが「物語」の原型と言われている。そういう意味では「君たちはどう生きるか」は正しく、宮崎駿だけが物語ることができる物語だ。宮崎駿という商業的創作者自身が見てきた、創作者の世界の物語だった。アニメーターであり、監督であり。描かなければならない。描かないと表現できない。
・パクさんが最後に作ったのが「かぐや姫の物語」、つまり超デラックスな「日本昔話」であり、あくまでも「純然たる創作の作品」を極めたのに対し、宮崎駿は最後の最後、自分自身の人生をコンテンツとして物語るというのを選んだのは必然だと感じた。あくまでも「創作されたもの」、特に「商業作品」としての創作において、自分の人生と経験を引き継いで欲しいという願いに涙するしかない。趣味ではなく、これでごはんをたべる、食っていくことのリアル。それをアンリアルで見せる。リアルでの涙が流れるような感動ではなく、心の中の非現実で絶句するしかないような感動だった。

作成者: そうすい

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