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  • 趣味の理解

    趣味の理解

    お久しぶりです。25kuriyaと申します。
    何となく文章を書きたくなったので、戻ってまいりました。

    前置きはさておき、読者の皆様は「遊戯王」・・・というものをご存知でしょうか?
    知らない方も多いと思われますので、公式サイトを引用させていただきます。

    http://www.yugioh-card.com/japan/

    こちらのページに飛んでいただけると何となく、遊戯王がどんなものなのかを理解することが出来ると思います。
    要するにカードゲーム、トランプやUNOと同じと思ってもらっていいと思います。
    しかし、遊戯王って結構凄いんです。

    「遊☆戯☆王」カード
    251億枚突破で世界記録を更新

    http://www.konami-digital-entertainment.co.jp/ja/news/topics/2011/0614/

    251億枚!?
    なんと世界で一番売れているカードゲームとしてギネス記録を貰っています。
    これで、
    「遊戯王というカードゲームがどれだけ凄い物なのか」
    ということがわかっていただけたかと思います。

    まぁしかし、本題はここではないのです。
    どれだけ「一番売れている」とか、「ギネスに乗った!!」とか言われても、
    所詮は紙にインクを印刷しているだけ。ただのカードです。
    それ自身がお金を生み出す訳でもありません。(基本的には、ですが。)
    そんな物に、何千円・何万円・・・それ以上もお金を使う価値なんてあるのだろうか!?
    とお考えの方もいるでしょう。
    今回は、その辺の事について書かせていただきます。

    では、私はなぜ「遊戯王」をやるのでしょう?
    世界一売れているカードゲームだから?
    そんな訳ありません。
    私にとって、「遊戯王で遊ぶこと」が「趣味」だからです。

    人間誰でも、「俺は○○をするのが好き!」「私は●●を集めるのが好き!」という、「趣味」が存在するはずです。
    もし趣味を持っていない方がいらっしゃるのであれば、すぐに探すべきだと思います。
    趣味を持っていた方が、人生楽しいに決まっています。持論ですが。

    まぁそのような「趣味」という物を持っている人は、
    「その趣味を楽しみたい!!」と心から思っているはずです。当然の事でしょう。
    自分からその趣味を選んで、「これで楽しみたい」と思ったからこそ、それを趣味と言い張れる。
    私はその「趣味の対象」が「遊戯王」だった。それだけの事なのです。

    親や、時には友人に言われます。
    「そんな紙切れにお金を使うなんて勿体無い!」と。
    何をおっしゃっておるのだ、と私は言いたいのです。
    (ここから登場する「お母さん」・「弟」は架空の人物です。フィクションです。僕は一人っ子です。)

    では母よ、あなたの持っているその「ブランドのバッグの山」は何ですか?
    なぜ、ブランドのマークがついただけで値段が跳ね上がる布に対して、そんなにもお金を使うのですか?
    カバンなど、2つくらいあれば十分でしょう。
    そういうと、母はこう答えるでしょうね。
    「私はバッグを集めたいの! 趣味なの!」と。

    では弟よ。お前の持っているその「野球用品」は何だ?
    なぜ、そんなに重いヘルメットを被って、鉄の棒を振って、
    玉に当てて走るだけの面倒なスポーツをやるためにお金を使うのか?
    別に友人と鬼ごっこでもしていればいいではないか。
    そういうと、弟はこう答えるでしょう。
    「俺は野球がやりたいの! 趣味なの!」と。

    人には「価値観」と言うものが存在します。
    私は遊戯王が大好きですが、母と弟は「そんな紙切れにお金を使うなんて!」と言います。
    母はブランドのバッグを集めたくて仕方ありません。でも私と弟はそれを「また買ってきたよ」と、見ることしかできません。
    弟は野球をするのが大好きですが、私と母はその用具にお金を出すことを渋ってしまうでしょう。
    登場人物である3人が、何に対して「価値」を感じているか、というのは上の文章から明白かと思われます。
    では、その基準は何なのでしょうか?
    私は、「それに対してお金をどれだけ使えるか」ということが基準になっている、と思います。
    遊戯王カードを買うためなら、私はバイト探しを始めるでしょう。
    母はブランドのバッグを買うために、家族の食費を削っている可能性もあります。
    弟は野球用具を買うために、家事手伝いを頑張っちゃうかもしれません。
    自分の趣味にお金を使うと言うことは楽しいことなのです。だから、ついついお金を回してしまう。

    たとえば、私は野球観戦が好きだったとしましょう。(実際結構好きです。)
    弟も野球が大好きなので、話は合うことでしょう。
    今年は○○が優勝するだろう! みたいなトークにも拍車がかかります。
    すると、弟は
    「今度近くのドームで試合あるからチケットを取って欲しい! 近くで見たい! 一緒に行こう兄ちゃん!」
    と言い出します。
    しかし、私は野球を見るためだけにドームに行くのは面倒だと感じてしまいます。
    「別に家で見てたっていいじゃない、お金ももったいないし」。 と思ってしまうのです。
    これが「お金をどれだけ使えるか」の差です。
    例えそれが「好き」と感じていても、
    「○○だったら、俺はいくらでもお金を使える!!」
    「●●だったら、別にここまでお金かけなくてもいいな」
    というラインが存在します。
    そのラインがほぼ存在せず、何かを犠牲にしてでも、得たい物がある。
    それが「その人の本当の趣味」なのではないでしょうか。

    結局私は、何が言いたかったのか。
    私は、皆さんに諦めてほしくないのです。
    例え自分がどれだけ「その趣味」を好きでいても、
    周りの人に馬鹿にされたり、考えを共有できなかったりする。
    そうなってしまったときに、
    「誰にも理解されないから、もう止めよう」
    なんて思ってほしくないのです。
    それこそ、初めのほうで出てきた「趣味の無い人間」になってしまいます。
    もちろん、ストーカーや法に触れてしまうことはやってはいけませんが、
    そうでない趣味が馬鹿にされたり、禁止されることなど、あってはならないのです。
    それをすることは間違っていない。「悪ではない」のです。
    そして、誰かの趣味を馬鹿にしたことのある人は考え直すべきです。
    「人それぞれなんだよね」と。

    この記事を見て、私の意見をなんとなく汲んでくれたのならば、
    趣味を馬鹿にされている人を見かけたとき、馬鹿にしている方に向かって
    「それは人それぞれだろうが!」
    と怒ってあげて下さい。
    そうする事で、誰にも邪魔されずに、自分の趣味を楽しめる。
    そんな世界が出来上がっていくのではないでしょうか。
    いいことではありませんか。
    そうやってお金を使う内に、なんか経済も回っていくでしょう。
    いい事ずくしです!

    ・・・しかし、勉学や仕事に影響するくらい趣味を満喫するのは止めておきましょう。
    「希望と絶望のバランスは差し引きゼロだって、いつだったかあんた言ってたよね。今ならそれ、よく分かるよ」
                       魔法少女まどか☆マギカ 登場人物、美樹さやか のセリフより
    自分を追い込む前に、戻ってくる勇気も大切です。

    それではっ!
    長くなりました。駄文失礼します。
    25kuriya

  • 『世代』

    『世代』

    kagaminです。

    今回は真面目に、『世代』について書きます。

    あくまでも、私個人の考えで、偏見など混ざっていると思うのですが・・・。

    気分を害されるかもしれません・・・。その場合はすいません。

    私は以前、『世代』が人・社会に及ぼす影響をテーマにした本を読みました。

    私はその本を読み、とても感銘を受け、自分でも考えてみようと思いました。

    そして、1ヶ月ほど自分の中で人を観察し、今までの経験を

    思い出し、考えてみました。

    その結果こうなりました。

    人は、幼い頃からの

    ・教育

    ・環境

    この2つによってその世代ごとの考え方(その考え方の人が割合的に多いということ。)が出来ていくように思います。

    たとえば、私には、2つ上の兄がいます。

    その兄は、「人は何かを後世に残さないといけない、成果を出さないと楽しくないし意味がない」と言います。

    それに対し、私は、「自分が生きてる間楽しかったらそれでいいじゃん、後世に何かを残す?そんなことしても自分は死んでるんだよ?何も得しないじゃん。」という考えです。

    まぁこれは極端な例だと思うのですけどね。

    「どうせ人間の人生は短いんだから自分で勝手に楽しんでいいだろ」、と私は思います。

    まぁそれに対し兄は、「人間の人生は短いんだから、がんばって後世に情報を伝えていかないといけない」という感じなのでしょうが・・・。

    兄は、『他人を主に考える』

    私は、『自分を主に考える』

    もちろんこの2つは平行線で、いつまでも話に終わりがくるはずありません。

    これは、私たちの兄弟だけではありません(と私は思う)。

    兄と同じ世代の人を観察するとやはり、「楽しむより重んじる」という傾向があります。

    それに対し私たちの世代の人を観察すると、「重んじるより楽しむ」傾向にあります。もちろん一概には言えませんが・・・。

    これだけでは分かりにくいので、中学校の部活を例にすると、私たちが1年の時は、兄の世代が3年で、とても尊敬できて、積極的に教えてくれる先輩達でした。

    そして、3年になってからの私たちは、後輩のことをよく考えず、ほったらかしにしていた先輩だった記憶があります。

    私たちは、「自分が楽しむため」に部活に入ったんだから考えてみれば当然です。

    私たちの先輩、つまり兄の世代は、もちろん自分が楽しむため、というのもありますが、「後輩に技術を残し、部活の歴史を作って」いました。

    人間性、という観点から見ると、兄の世代の方がとても立派で、尊敬すべきです。

    ですが、人生を楽しむ、という観点から見ると、私たちの世代のほうが良いと思っています。

    たとえ、後世に何も残せず、立派でなくとも。

    開き直っている、と思われるかもしれません。

    ですが、これが私(私たち・・・?)の考え方なのです。

    兄の学年は、「今までで一番よく出来る」とか言われてきました。

    私の学年は、「今までで一番出来が悪い」と言われてきました。

    この考え方の違いの根本の原因はなんなのでしょうか・・・?

    少しずつ調べてみたいと思っています。

    まだまだ考えを書き出してみた段階ですので。

    長々と書いてきましたが、あくまでも私個人の考えですので・・・。

  • 「それ何の役に立つの?」とか言う人へ

    「それ何の役に立つの?」とか言う人へ

    役に立つか立たないかはその時ではわからないことが多い。かなり回り道していろいろ経験して、それがあとで活用できるようになるというケースの方が多い。最初から「○○の役に立つから!」とかそんな明確な目的でやったりすることの方が少ない。

    「なんの役に立つんですか?」の暴力性 – MoriyamaMoriko – – 森山森子
    http://d.hatena.ne.jp/m0612/20100414/p1

    テレビで魚に右利き左利きがあることを発見した教授が出ていたらしく、エサを取るのに右にばかり曲がる魚がいて、そういう魚を干物にすると、右利きは右に曲がって干からび、左利きは左に曲がって干からびる、つまり骨格から利きが決まっているらしい、というところから話が始まる。で、アナウンサーが苦笑して「なんの役に立つんですか?」という愚かな質問をしてしまっていた、というのが導入部。ここから反論が始まるがなかなか興味深い。

    うーん。「なんの役に立つんですか?」という言葉は、実はいろんなことに投げかけられている。「マンガなんて読んで、なんの役に立つの?」「宇宙なんて研究して、なんの役に立つの?」「絵画なんて観て、なんの役に立つの?」大衆にとってもっとも価値があるのは「利便性」だ。「利便性>娯楽性>芸術性」という順番こそが大衆性であり、情報番組はだから好まれるし、「人の役に立つ人間になりたいです」と子供に言わせる。それは文明というもの、科学というものの恩恵をうけてきた人間らしい言葉であるし、考え方だろうけれど、そもそもその文明や科学を、さも人間が意図して手に入れてきて、「役に立つ」ということを目指してきたと考えること自体が大きな間違いなのだ。「人の役に立つぞ!」って研究者ががんばって研究したから科学技術が発達したと思うのは大間違い。文明というものは人間の純粋な好奇心による知的探求から結果的に生じたおまけ、なんだったら排泄物でしかない。真理を追究していたら、偶然にも文明がいっしょにぽろっと現れて、それの恩恵を人が受けている、それだけである。

    で、ここからあとの具体例がかなり納得できる。

    ニュートンは別に、工学に役立てるために運動方程式や、万有引力を発見したわけではないし、コペルニクスも宇宙旅行のために地動説を発見したわけじゃない。だから「役に立つ」ということを目標にしても、将来の進歩に結びつくわけじゃないし、「これを知りたい!」という単純だけど強い強い好奇心によって自分勝手に動く研究者のほうがずっと粘り強く、結果的に(本人の意思とは関係ないところで)進歩に貢献するものだ。科学には基礎科学と応用科学というものがあって、基礎科学は簡単に言えば物理だとか化学だとか、生物だとか、地学とか、根本的な真理を探究することが仕事だ。応用科学はそこで見つかった真理を応用し、実用化するのが仕事。医学とか薬学とか工学とか農学がここに当てはまる。テレビでも別の研究者さんが、役に立つかどうかなんて事は自分にはどうでもよくて、それはまた別の人が考えること、とおっしゃっていて、基礎科学の人間にとって、発見したことを実用化するかどうかなんてのは管轄外でしかない。しかも、その真理が発見した同じ時期に必要とされる技術になるかはわからない。

    コレは別にこういう科学以外でも言えるんじゃないかと思う。もし無駄なコトということであらゆるものを今すぐ役に立つものと立たないものとに分類してしまうのであれば、一体今何をすればいいのかってことになってしまいかねないし、そんな風にして目先の物事のことだけに執着していると、必ず行き詰まる。自分の中の引き出しの数を山のように増やしておくのが肝心で、それが適応する力とか、応用する力とかに結びつく気がする。

    個人的にはこういう「それって何の役に立つのw」みたいなことを言う輩にはこの台詞を言うことにしている。

    奥さん、生まれたばかりの赤ん坊が何かの役に立つとお思いですか? – 瀧澤美奈子の言の葉・パレット
    http://blog.goo.ne.jp/minacraft/e/2d6426dfa923f007ece489f1ba052a4e

     今から180年ほど前、マイケル・ファラデーが電磁誘導を発見しました。
    電磁誘導によって発電が可能になったわけですから、私たちは計り知れない恩恵を受けているわけです。しかしそのことは当時、かならずしも自明なことではありませんでした。
     ファラデーは、定期的に一般向けの講演を行っていて、一般大衆の前でその物理現象をデモンストレーションしてみせました。
     すると、その日の講義の最後に、ひとりの女性が質問しました。
    「ですが、ファラデーさん。磁石をつかって、ほんの一瞬、電気を起こしてみても、何の役に立つのでしょうか?」
     ファラデーは、礼儀正しく言いました。

    「奥さん、生まれたばかりの赤ん坊が、何かの役に立つと思われますか」

    たぶん勉強とかもこういうコトなんだと思う。